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Channel: 桑の木窯・赤城山のうっさん陶芸工房
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硫黄島の話

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硫黄島の話
http://nipponbanzai.at.webry.info/200912/article_5.html


『 硫黄島の話。』

硫黄島は「いおうとう」が正しい読み方である。
「いおうじま」という読み方は、日系のアメリカ兵がその読みの音を知らず、
「いおうじま」と読んだことがきっかけだったそうで、
つまり、「いおうじま」はアメリカ側の読み方だ。
したがって、日本人は「いおうとう」と読むべきなのであろう。

硫黄島は東京都小笠原村にある。
つまり、日本の島だ。
しかし、なぜか一般の日本人は硫黄島に行くことができない。

それなのに、映画「硫黄島からの手紙」の撮影ために
クリント・イーストウッドらは硫黄島に入ることができた。
その理由を防衛省は、「アメリカの国務省が要請してきたから」だと言う。
しかし、日本の領土にアメリカは関係ないはずだ。

先の戦争時、硫黄島には日本人兵士2万1千人が派兵された。
この時戦争は末期だったため、ほとんどの人が職業軍人ではなく、
元は一般の方々だった。 
その2万1千人のうち、無事生還出来た者はたったの1033人。
お骨として帰って来た者は8千人ちょっと。
残りの1万人以上の日本人の骨がまだ埋まったままだ。
しかも、彼らは今の多くの日本人に忘れられている。

アメリカ軍は硫黄島を占領した後、たくさんの日本兵の遺体の上に
そのままコンクリートを流し、滑走路を敷いた。
戦後から23年後、アメリカから返還された硫黄島は自衛隊が
管理することになり、埋もれた彼らの骨を拾うためその滑走路は、ずらされた。
しかし、完全にずらしたわけではなく、元の位置と大部分が重なるため、
まだたくさんの骨がそのままである。
自衛隊機や硫黄島に来る飛行機は、今でも彼らの骨の上で離着陸を
おこなっているということだ。

硫黄島には、日本兵たちが掘った地下壕がある。
その地下壕は、手のひらの長さぐらいの大きさしかないトンカチのようなもので掘られた。
1日に1メートルしか掘り進めなかったそうだ。
しかも、硫黄島は地熱や島の位置などから、時には気温が60℃を超える。
連続した作業は5分も続かなかったそうだ。

その壕は入り口から奥までは狭いが、奥の空間はちゃんと人が立てるぐらいの広さがある。
奥までの狭い通路は曲がっていたり、側面には穴がいくつか掘られている。
これは米軍の攻撃が壕の奥にまで届かないようにするためだ。
側面の穴は火炎放射器の火炎の抜け道になる。

栗林中将(映画「硫黄島からの手紙」で渡辺兼氏が演じた役)は、部下たちに
「自決」と「万歳突撃」の禁止を命じた。
これには部下たちから批判が続出した。
なぜなら、硫黄島が陥落されることは、みんな分かっていた。
であれば、潔く最期を遂げるのが、日本兵の武士道ならではの習わしだったからだ。
特に捕虜になることは恥ずべきとされていたからである。

しかし、栗林中将には考えがあっての命令であった。
硫黄島はアメリカの軍事戦略上、重要な島であった。
なぜなら、アメリカにとって、硫黄島は日本への本土爆撃のための拠点として
必要だったからである。
とすれば、硫黄島の陥落が一日伸びれば、一日爆撃が遅れる。
爆撃が一日遅れれば、その一日分、日本国民の命が救われる。
したがって、潔く死なずにできるだけ粘る方が良い。

栗林中将はみんなをそう説得し、日本国民を護るために戦っている日本兵は納得した。

そして、硫黄島の陥落をアメリカは5日間を予定していたが、日本軍の奮闘で
36日間もかかった。
31日分の日本人の命が救われた。
その救われた命は誰の命だろう。

陥落されると分かっていながら、灼熱の60℃の中で地下壕を堀り、
蒸し風呂状態の壕の中でじっと耐え、武器を持って、強力なアメリカ軍に立ちはだかった。
これは生半可な気持ちでできるわけがない。
なんのために、日本兵はここまでしたのか。
それは決まっている。
本土にいる女・子供のため、我々の未来のため、つまり私たちのためにやったのだ。

その彼らが命を懸けて護った日本は今どうなっているのか。
親が子を殺し、子が親を殺し、仲間をいじめて自殺に追い込み、連日のように異常な
犯罪ニュースが流れ、大した事件でも何も感じなくなってはいまいか。
個人主義がはびこり、自分にしか興味がなく、自分の為にしか生きていない。

硫黄島で散った兵士たちは我々をどう見ているだろうか。

我々がこの日本をどんな国にするのか。
我々がやらなければならない。

アメリカ兵の遺族は国費で慰霊のために硫黄島を訪れることができる。
また遺骨のほとんどがアメリカに帰ることができたそうだ。

しかし、日本の遺族は硫黄島まで自費で行くか、ボランティアの援助しかなく、
多くの遺骨が埋まったままだ。

クリント・イーストウッドは、「硫黄島からの手紙」の撮影の際、日本人スタッフらに
硫黄島での戦いについて尋ねた。
ところが、日本人スタッフは誰もその実態を知らなかった。
クリント・イーストウッドは大変驚いたそうだ。

硫黄島の戦いは、日本が圧倒的に不利でありながら、日米間でもっとも激しい戦いで、
唯一米軍の損害が日本の損害を上回った戦いだった。
そんな戦いをした栗林中将にアメリカは尊敬をしていたからだ。
そのため硫黄島はアメリカにとって日米戦の勝利の象徴になっていた。

硫黄島から生還された方に、金井啓さんと言う方がおられる。
今年83歳の元海軍下士官だ。
その金井さんに、独立総合研究所の青山繁春氏がこんな質問をした。

「日本は悪者だったと教えられたため、日本人はみんな無関心になってしまったのでしょうか?」

すると、戦後多くをずっと語らずにいたという金井さんが、

「その通りだよ!俺達のどこが悪者なんだ。
あなた方を守るために私たちは闘い、みんなは死んだんだ!」

そうして、次のように語った。

「帰って来てから水のことが忘れられない。
地下壕でじっとしている間、タンクにある水だけが頼りだった。
仲間が死ぬ寸前、水をくれというので、水と言っても60℃ぐらいありますから熱湯です。
その水を末期(まつご)の水として、仲間の口にあててやるんです。
そうすると熱湯だから唇が腫れるんです。
だから、今はキンキンに冷やした水を仏壇に供えてやっているんです」

栗林中将は戦闘で斃れる間際このような短歌を詠った。

『国の為 重きつとめを 果たし得で
 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき』

金井さんは青山氏と別れるとき、小さく海軍式の敬礼をした。

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